少子化は一国にとっては問題かもしれないが、人類にとってはむしろなすべき課題である。

現在わが国では少子化が問題になっている。社会保障制度の破綻や、労働力の減少による国際競争力の低下が危ぶまれているためらしい。
しかし、これらは要するに、日本一国に関する問題である。しかし、世界的にはむしろ「増えすぎた人間」こそが問題になっているというのが常識である。そして、増えた人間すべてが先進国並の暮らしをしたら、世界の資源は即枯渇するのである。日本において少子化が問題になる以前から、石油資源をはじめとするエネルギー問題が語られていたことを忘れるべきではない。
自然界にはキャリング・キャパシティというものがある。現在でも有史以前のような狩猟採集生活を行っている部族(それも最近では数が減少しているようだが)などでは、基本的に人口爆発というものがありえない。人口が増えれば、食うものがなくなってしまい、必然的に人口が調整される。生態系や食物連鎖を考えると、ある一定の地域で生存可能な生物の数というのは、「自動的に決定」されてしまうものなのだ。*1
人類は、「農耕・牧畜」といった技術を獲得することによって、自然界のキャリング・キャパシティを拡張することに成功した唯一の生物である。
とは言っても、産業革命以前においては、人口の増大や資源の浪費はまだ地球環境に影響を与えるほどではなかった。*2
現代においては「人間一人の価値」は、現実的に下がっている。グローバリズムの影響によって国境の影響が少なくなれば、この傾向はさらに加速するだろう。「役たたず」をどう使うか、というより、本当にそういう人間はいらない、という社会になっているのだろう。純粋に経済的な問題のみを考えてみても、この傾向は特に特定の地域に依存しない産業において明確に現れている。
さて、お気づきであろうが、近代における人権の論理や社会保障制度などはこれと相反する方向に進んできた。どんな役立たずでも最低限生きていけるようにしようということである。障害者支援や高齢者に対する年金制度なども、実際的にはこの思想に関わっている。『楢山節考』ではないが、昔は働けない人間には食事が与えられなかったのである。さらにこれは現代のニート・フリーター問題とも逆説的に関わっていることだろう。*3格差社会におけるワーキングプアの存在などはまた個別に論議されるべきではあろうが、現在の所、道端の所々に困窮者の死体が転がっているというほどの事態ではないのである(応仁の乱の頃じゃあるまいし)。*4
我々が「こうあるべき」と考える社会と、「こうである」という社会に乖離が生じているのではないか。いや、それは人類の歴史すべてにおいて生じてきたことであるとも言えるのだが。
とりあえず、「結婚しない。子供を作らない」という今の若い人達の傾向は、スウィフトの『アイルランドの貧民の子供たちが両親及び国の負担となることを防ぎ、国家社会の有益なる存在たらしめるための穏健なる提案』などよりはるかに穏当で、全人類にとって有益な行為であることを確認すべきである。日本社会が崩壊する?そんなことどうでもいいじゃないか。なに、本当に困るのは現在の団塊世代とその子女である。50年もすれば人口は一定数で落ち着く現象だろう。もし落ち着くことがなく、日本という国家国民が消滅するような事態となっても、それもまた歴史の趨勢である。貧乏人が子供を作らないことが困るのは、搾取する側に決まっている。奴隷が増えてくれないと労働力が確保できないのだろう。
これ以上地球上に人間が増えても、悲劇が増すばかりでいいことなど何一つない。

*1:生物進化というイノベーションによってそれが変化することはある。

*2:厳密には与えているが、それを自覚してはいなかった。あるいはなんとかなっていた。

*3:別にニート=役立たずということを言いたいわけではない。まあ、実際問題「役立たずにされていってしまう」のではあるが。

*4:生きているだけでいいのか、という問題はさておき。