「話のつまらない男に殺意を覚える」という言葉の背景にはどういう構造があるか

『話のつまらない男に殺意を覚える』というのは某書のタイトルだそうだが、内容については読んだことがないので、その評価はできないしするつもりもないし実際どうでもいい。 ここで私にとって問題なのは、なぜ「男」に限定する必要があるのか、ということである。つまらない話をする女はいない、ということなのだろうか。あるいは、つまらない話をする女もいるが、その場合は殺意を覚えることはない、ということなのだろうか。
前者の場合、性別によって会話の傾向は異なるものであり、男性の、それも特定のタイプの人間の話はつまらないと感じさせられる、ということが前提になっている。考えられるタイプの反論は「つまらない話をする女もいる(と私は感じている)」、であるが、これ自体は感覚の問題であって、水かけ論になることが容易に予想できるが、どちらが「正しい」と言えることではない。ただし、特定の男性の話をつまらないと「感じる」こと自体は自由であるが、それをもって「殺意を覚える(=死ぬべきである)」と表明することは問題である。「感じる」ことは自由であるが、それをもって他者に不当な扱いをすることは一般的に許されるべきことではない。
後者の場合、会話の技術は性別によらず個々人の資質に由来するが、その評価の基準は話者が男性であるか女性であるかで異なっており、女性の会話がつまらないのは許されるが、男性は許されないと考えている、ということが前提になっている。これは前者に比べてさらにポリティカルコレクトネスとは言いがたい。「男は面白い話をするべきである」という主張に合理的な根拠を見出すことは難しい。この場合、考えられる反論は「なぜ男だけが会話に面白さを求められなければならないのか。差別である」というものである。この点については反論に正当性があるのではないかと思われる。
実際には、上記の要素がクリアカットに分かれるのではなく、二つの要素が入り混じった上でこのような言葉が発せられているのではないかと推察する。なんにせよ、男性にとって不愉快な話と感じられる可能性は高い。「あなたは話のつまらない男ではない」と仮に言われたとしても、それが嘘である可能性はぬぐいきれない、と男性は感じるからだ。