ギャンブルと株式投資に関するとりとめのない考察

株式投資はギャンブルであるか否か」という命題について調査や考察をしているうちに、そもそも「ギャンブルの定義とは何か」ということについて考えなければ話にならないということに気がついた。
一般の人々にとって「ギャンブル」の定義がバラバラであるがゆえに、たとえば「人生はギャンブルだ」という言葉にも一定の真実が含まれるように感じられるし、「結婚や就職や進学だってギャンブルだ」と言われてもわからなくはないと思われる。しかし、「それを踏まえれば、株式投資なんてギャンブルのうちに入らないのだから、どんどんやるべきだ」と言うのは無茶苦茶である。「人生にはギャンブルの要素がある」という言葉には一定の含蓄があるが、「ギャンブルこそが人生だ」と言われても、「ちょっと待て」と言いたくなるだろう。
辞書的な定義に従えば、ギャンブルとは「金銭や品物などの財物を賭けて偶然性の要素が含まれる勝負を行い、その勝負の結果によって賭けた財物のやりとりをおこなう行為」であり、経済学的には「金銭の移動をともなう非生産的なゲーム」であり、一般的な感覚に従えば「運に任せて一攫千金か、素寒貧か」といったようにも表現できるだろう。

  • ここで「ギャンブル」を私なりに定義すると、「利益を得ることに期待して、場合によっては損失が発生することもある状態に金銭や財物を運用すること」「その場合の利益、損失とは財産の直接的な変動を指す」ということになる。

この定義に従えば、株式投資はギャンブルである」。それどころか、一般的に言われる投資行為はすべてギャンブルだと言える。なぜ投資行為がギャンブルと区別して捕らえられているのかというと、「投資行動は生産的ではないが、実際に生産活動に従事する人びとの生産効率を高めるという理由に正当化された」(日本財団図書館(電子図書館) 私はこう考える【公営競技・ギャンブル】)ためである。
人々は自ら能動的に、利益に期待して、損失のリスクを受け入れ、株式投資をする。場合によっては、損失のリスクを正確に把握していない場合も多々見受けられるが、すべての人が「利益に期待して投資をする」ことは間違いないだろう。十二分以上の資産を持っていて、「株式投資なんて遊びのひとつだ」なんていう資産家がいたとしても、極端な例で上場廃止などを受けて自分の所有している株がすべて紙くずになって大喜びするようなマゾではあるまい。利益が出れば嬉しい、というだけでも利益に期待していることに変わりはない。

  • では、消費とギャンブルはどう違うのだろうか。

「ある人が家を買って、そこに住む」
これは単なる消費である。その人は「家を購入する」という行為から利益を得ようとはしていないからだ。
「ある人が家を買って、それを人に貸して家賃収入を得る」
この場合は、賃貸業務がうまくいって収益が得られるかどうかは不確定であるのでこれは投資行為というギャンブルである。なんらかの運用努力によって収益性を高めることはできるかもしらないが、その目論見がうまくいくとは限らない。その投資行為が失敗に終わる可能性ももちろんあるのだ。
より投機的な「土地転がし」などで利益を得ようとする行為などはまさにギャンブルとしか言いようがなくなる。
別な場合を考えてみよう。
もしあなたが多少の額の日本円を所持しているとしよう。そのまま現金を持っているだけでは、紛失や盗難に会う可能性がある。
そこで、銀行に預けることにした。その場合の目的は、「盗難や紛失に備えるため」「公共サービスの自動引き落としなどの利便性」といった理由がほとんどではないだろうか。少なくとも「銀行利子による利殖」を目的として銀行に金を預けている人など現代日本ではほとんどいないだろう(利子によて得られる利益よりも、物価の上昇の方が大きくて結果的に損失になるかもしれないくらいだ)。しかし当然ながら、銀行が破綻する可能性は0ではないので、銀行に資産を預けることによって損失が生じるリスクは存在する。だが、人々は「利益に期待して銀行に金を預けているわけではない」ので、これはギャンブルではないと言える。まして銀行サービスを利用する上では種々の手数料を支払っており、一般家庭レベルの資産程度では単なる銀行サービスの消費者でしかありえない。
要するにポイントとなるのは、「その行為によって直接的な利益の増大を期待するかどうか」という点にある。
もっとくだけて言えば「もうけたい」という気持ちさえあれば、それはギャンブルになるのである。


  • 株式投資はギャンブルではない」という主張の論拠はどのようなものか。

株式投資とギャンブルの違いを指摘している点についてまとめてみようと思う。
・「短期での投機はともかく、長期的な投資はさまざまな情報分析をすることで収益性を高めることができる」
→「あなたが持つ情報分析力や投資ノウハウが仮に優れたもので、確実な収益を現在までのところ上げているとしても、それが「株式投資はギャンブルでないと」と証明することにはならない。なぜなら、損失をするリスクは0ではないからである。あなたは損失を回避するように可能な限りの方策を実施し、現在までそれに成功しているかもしれないが、あなたの「ありえる事態の予想」をはるかに超える事態が明日起こらないとも限らない。損失のリスクを抱える時点で、それはギャンブル」
「また、優れたプレイヤーが存在し、確実な勝利を収めているとしても、それをもって「ギャンブルではない」と言うことはできない。麻雀などの、ある程度熟練性の必要なゲームにおいては、熟練者と初心者の間に回数を重ねれば重ねるほど確実な差がつく。しかし、「ゲームとしての麻雀をもっと認めてほしい」という意見はあっても「麻雀はギャンブルではない」と言う人はほとんどいません。「努力によって勝率を高めることができる」ことがギャンブルとしての要件を失わせることはない。それこそ、将棋やゴルフといったより実力の反映度の高いゲームにおいても、時に人は金銭を賭けることがある」
・「株式市場はゼロサムゲームではないので、ギャンブルではない」
→実際に株式市場の構造がどうであるかを論じる以前に、ゼロサムゲームでないということがギャンブルではないという理由にはならない。多くのギャンブルはゼロサムゲームであるが、ゼロサムゲームであるということがギャンブルであることの必要条件にはならない。それは、株式投資はどういった種類のギャンブルであるかという分析にはなっても、ギャンブルではないという証明にはならないのである。ある場合には利益が得られ、ある場合には損失を蒙ることもある。全体としての総和がマイナスだろうとプラスだろうと、それだけでギャンブルとしての用件は満たしているでのではないか。
・「株式市場を利用して確実に利益を得る方法も存在する」
→「古今東西、ギャンブルに確実に勝つ方法といえばイカサマに決まっている。株式市場にもそういった抜け道がある。インサイダーな情報を利用した取引である。これは、他のプレイヤーとの平等な立場で判断を行うという原則を破棄しているため、イカサマと表現するのがもっとも的確だろう。しかし、インサイダー取引が市場を破壊することは明白であるため、これは法律で禁じられている。つまり、まあ実情としてインサイダー取引だってある程度行われているのかもしれないが、建前としては株式市場にはそうした「イカサマ」は存在しない、存在してはならないことになっている 。それ以前に、イカサマが可能であるということがギャンブルではないことの証明にはならない」