赤ちゃんポスト関連雑感

 九州の慈恵病院というところに「こうのとりのゆりかご」という設備が設置されることとなった。これに関してはマスコミは「赤ちゃんポスト」という呼び方で報道している。命名からして悪意を感じるのだが、まあマスコミのやることがろくでもないのは今に始まったことではない。
 それは別として、色々思うところがあったのであまりまとまりがないが雑感程度に。と思ったら、読み返してみるとこれだけでかなり長いな。


・設置目的に「子どもの命を救う」ことが前面に押し出されているが、また「中絶の防止」なども掲げている点について

 あまり着目されていないが、「中絶を減らしたい」ということもこの「赤ちゃんポスト」の設置目的の中に入っている。これはキリスト教系の思想が根底にある。慈恵病院はキリスト教カトリック系の病院である。キリスト教圏の国ではそもそも中絶が合法ではなかったりする(国によって異なる)。その根拠は「胎児はひとつの生命であり、堕胎は殺人である」という見解である。(参考:「バース・コントロールと妊娠中絶」http://japan-lifeissues.net/writers/edi/edi_101cathandbuddist.html
 アメリカでは中絶の是非(プロチョイス・プロライフ問題)について今もって激しい議論がなされている。「中絶を行う」と公言した医院が爆破されるという事件が起こるほど。
 これら外国の事例に比較すれば、日本は中絶についてかなり寛容であると言える。おそらく一般的な感覚とすれば、「推奨するというわけではないが、中絶という選択をすることもやむをえない場合もある」という感じではないだろうか。日本人に「胎児はひとつの生命である」という感覚がまったくない、と言うことはできないが、「堕胎は殺人であり、絶対に許されることではない」といった意見を持っている人はあまりいない。少なくともそれを理由に産婦人科を爆破するようなキチガイはいない。
 (主題がズレるが、日本で一般的に重度の奇形や障害を持った子どもが諸外国に比較するとあまり生まれていないという統計があり、それは日本ではそうした子どもを妊娠していることが判明するとすぐに中絶してしまうためだろうといった見解がある。)
 しかし、「赤ちゃんポスト」の設置が中絶を減らすことにどうつながるかと言えば、結局のところ「生んだとしてもここに預ければよいので中絶しないでください」という暗黙のメッセージという意味になる。そのことの是非はともかく、胎児を生命を失わせないことをとにかく優先する、ということがキリスト教の理念なのだ。
 

・「安易な子捨てを助長する」「匿名で子どもを捨てることができるのがいけない」という反対意見について

 「匿名で子どもを捨てること」が可能なのは、別に赤ちゃんポストがあろうとなかろうと変わりがないと思うのだが。そもそも慈恵病院がこのようなポストを設置しようとした目的は、そのように捨てられた子どもが死んでしまう、という事態をなるべく減らしたいがためである。
 それともこれは「子どもを捨てることのハードルが下がるということが問題」という意味なのだろうか。では、子どもを捨てようと考える際に親にとって何がハードルになるのかと考えてみよう。
 まず、「親として子どもを捨てることはできない」という感情の問題である。  もうひとつは、「子どもをそこらへんに捨てると、法律によって罰せられるので(児童福祉法違反や保護責任者遺棄罪などそれにあたるか)、捨てない(捨てられない)」という合理的な判断によるものである。
 前者に関しては、赤ちゃんポストが存在していようといなかろうと関係がない。後者に関しては確かに赤ちゃんポストの存在によって影響を受けるかもしれない。しかし前者の要因をもたない親は、いずれにしても子どもを捨てるか、事実上の育児放棄などをする可能性が高いのではないかと考えられる。
 つまり、場合によってはそうした親に育てられるよりは里親などに育てられる方がよいのではないかという判断だってありえるのだ。
 極論を言えば、「安易な子捨てが存在するとしても、その場合は捨てられた方がこどもにとってよい」という見解だって理屈ではなりたつ。「安易な子捨ておおいに結構」というわけだ。
 その場合問題になるのは、最終的にはその子供の世話を「だれか」はしなければならないため、社会の担う負担がそれだけ増大するかもしれないということである。それに対して批判をするのなら理解できる。要するに「捨て子が増えて税金が増えるのは勘弁」という意味である。曲解すれば「他人の捨て子なんて知ったことではないので勝手に死ね」ということである。
 「こどもを育てる責任は実の両親にあり、社会がそれを代替して負担することはない」という意見と、「こどもは実の両親に育てられる方がいい」という意見はしっかり区別して扱うべきである。
 ここらへんは、例えば児童虐待が起こった場合などに行政が親から親権を剥奪することができるか、などの、親子の責任と行政の介入権限をどう規定していくか、といった色々な微妙な問題にも関わっている。日本では基本的に親の責任が大きく、その分なにか家庭に問題が起こっても周囲が介入しにくいという傾向がある。


・「子捨てはあってはならないこと」という意見について

 それはそうかもしれないが、そんなことを言ったところでだれにとっても何の解決にもならない。
 わかりきった「あるべき論」を語って、自分は正しいことを言ってますよと人に印象づけるゲームをするのはやめてもらいたい。
 では、子捨てが「あってはならない」として、実際に捨てられるこどもをどうすればいいのか。「あってはならないことはありえない」と目をつぶって野良犬のエサにでもなればいいとでもいうのだろうか。


 結論として、自分は設置に賛成である。それどころかむしろ全国に広めるべきではないかと思う。設置したところでだれも損をしないと思うのだが。あえて言うのであれば、一番損をするのはこれを設置する病院関係者だろう。赤ん坊をひきとっても、面倒が増えるだけで一文の得にもならないのだ。それでもわざわざやろうとしていることを止める理由などない。

 あと、色々調べてるうちにみつけた考察。理性的でよい分析。
赤ちゃんポストを利用するのは誰なのか
http://azumy.seesaa.net/article/34683110.html

株式投資はどういう種類のギャンブルか

株式投資はギャンブルである、との認識に変わりはないが、ではこのギャンブルにはどういう特徴があるのだろうか。株式投資ゼロサムゲームではない、ということはよく言われることである。これはどういうことを意味するのか。
個人間でやりとりをするギャンブルは、通常ゼロサムゲームであり、期待値は通常0となる (というより、そうなるように取り決めがなされる)。個人の間で、たとえばジャンケンをして負けた方が勝った方に1000円を払うという賭けを考えてみよう。どれだけやりとりをしたとしても、参加者全員の所持金の和は、初期状態(ゼロ)と変わらない。
しかし、いわゆる「胴元」がいる、大規模なギャンブルは事情が変わってくる。欧米などのカジノの胴元はギャンブルに「参加」している。カジノの収益はプレイヤーの「勝ち負け」に直接連動しているのだ。ただし、その中でもカジノ側に有利に(カジノ側の期待値が正になるように)ルールが設定されている。例えばルーレットには通常の赤と黒以外に0と00というナンバーがあり、ここに止まるとカジノの総取りとなる。だから、ルーレットの期待値はプレイヤーにとっては94.74%となる*1しかし、プレイヤーが大きく当て続ければ、短期的にはカジノが損をすることはありえる。だが、期待値が正に設定されており、胴元であるカジノは常に大量の試行を行うことになるので、大数の法則によってカジノは長期的には必ず勝つようになっている。そうしたカジノの有利さの設定(カジノ・エッジと呼ばれる)はゲームの種類によっても異なり、バカラなどがもっともカジノにとって利が薄いゲームと言われる、つまりプレイヤーの期待値がもっとも大きくなるゲームなのだ(それでも98.64%程度だが)。
ギャンブルの胴元ってそういうものなんじゃないか、と言うなかれ。日本の公営ギャンブルはまた違う形式をとっている。すべての賭け金を一旦プールした上で一定のテラ銭を差し引き、どんな結果が出ても残りの金で間に合うようにオッズを設定するのだ。胴元が損をする可能性は0である。カジノに関しては、「長期的には必ずカジノがもうける」ようになっているのだが、短期的な確率のゆらぎがあるので、すべての客がもうけ、カジノが損をするときもある。しかし、公営ギャンブルでは胴元からの金の持ち出しは一切ないのだ。つまり、日本の公営ギャンブルの胴元はギャンブルをしていない。その上、プレイヤーの期待値は75%という惨憺たる還元率になっている。だからそこにノミ屋が存在する余地があるのだが、それはまた別の話だ。
このように、胴元を通したギャンブルは、構造的に(プレイヤーにとっての)期待値がマイナスになる。もしこれがプラスなら、胴元は常に損をすることになり、そんなギャンブルをだれが執り行おうとするだろうか。いや、しないだろう。
株式市場も短期的にはゼロサム*2であるが、長期的には企業や市場の拡大によってプラスサムの方向に動こうとする傾向がある。ただし当然ながら必ずその方向に進むというわけではない。
もともと株式というシステムがなぜ存在するのかというと、資金を広く募ることによって多くの資本を調達し、企業活動を促進するためというのが本来的な存在意義である。つまり、「すべての株式は、投入された資金に対して利益を生むためにある」はずなのだ。だから、株式市場に金が流入すればするほど、企業の生産活動は拡大し、より多くの価値と利益が生まれ、株価も際限なく上昇し続けるはずである…というのは机上の空論で、もちろん本当にそうなるのかどうかはわからない。恐慌やバブル崩壊といった事態が起こり、株式市場が非常なマイナスサムに陥ったとき、人々は「まさかそんなことが起こるだなんて」とおののくのみである。人類が進歩しない証拠である。
しかし、「原理的にゼロサムやマイナスサムとは決定されていない」ということは、それだけでプレイヤーにとって非常に有利であるということは間違いない。その意味では株式投資は非常に「よい」ギャンブルである。
さらに、株式投資には他のギャンブルではほぼありえない高い自由度があり、リスク分散などの工夫をこらすことによって、リスクとリターンの比率を自分で決定していくことができる。
ただし、多様な投資スタイルが可能であるということは、「株式投資はギャンブルではなく、リスクが少なく確実なもの」ということを意味しない。むしろ限りなくリスクを追求してリターンを高める方法もあるのである。
普通一般的なギャンブルでは、「賭けた以上の金銭を失う」ことはない*3。つまり、この場合は最悪の事態が起きたとしても、「一文無し」になるだけですむ。株式売買でも「現物取引」だけを行うならば、やはり最悪の事態が起こっても0になるだけである。しかし、「信用取引」となるとそうはいかない。場合によっては自分が保有している資産すべてがふっとぶのみならず、巨額の借金を背負うケースも生じるという仕組みなのである。最近起こった事例では、「信用取引」「ライブドア」などで検索してみるとわかるだろう。
もちろん「ひとつの銘柄に信用全力二階建て」などという株式の購入方法をとることなどは、リスク無視にも程のあるまさにギャンブルとしか言いようのない行為であるが、いわゆる「賢い投資」というのがギャンブルではないということではない。それはとても薄められたギャンブルなのだ。
しかし信用取引などという危険な代物に素人が簡単に手を出せるという状況は、その危険性において競馬場やカジノどころの比ではないのではないか。借金してまで万馬券を買う人間はそうはいないし、もちろんそんなことは「自己責任」*4としか言いようがないが、「信用取引」を借金だと理解せずに利用している人もいるのではないか。
そうした意味では、「株式投資は相当えげつないギャンブルである」ということすら言えるのである。

*1:谷岡一郎『ツキの法則』より)。

*2:取引にともなう手数料があるので実際上はマイナスであるが、取引額が大きくなればなるほどその比率は小さくなる。その点では賭け金に対して一定の比率のテラ銭をとられるのが通常のギャンブルより効率をよくする方法があると言える。

*3:賭けを受ける側の胴元は場合によってはそうではなくなる場合もあるが、この場合は一般のプレイヤーにとっての現象だけを考える

*4:それにしてもいやな言葉だが、ことギャンブルに関してはこの言葉を使わざるを得ないと思う

「言葉っていうのはすべて嘘なんだ」
「だけど、すべての言葉が〈真実〉だと受け入れることで始めて、言葉というものに意味が生まれる。だから、言葉は〈真実〉として扱われなければならない」
「だれもがそう扱うことで、言葉は〈真実〉になる」

ギャンブルと株式投資に関するとりとめのない考察

株式投資はギャンブルであるか否か」という命題について調査や考察をしているうちに、そもそも「ギャンブルの定義とは何か」ということについて考えなければ話にならないということに気がついた。
一般の人々にとって「ギャンブル」の定義がバラバラであるがゆえに、たとえば「人生はギャンブルだ」という言葉にも一定の真実が含まれるように感じられるし、「結婚や就職や進学だってギャンブルだ」と言われてもわからなくはないと思われる。しかし、「それを踏まえれば、株式投資なんてギャンブルのうちに入らないのだから、どんどんやるべきだ」と言うのは無茶苦茶である。「人生にはギャンブルの要素がある」という言葉には一定の含蓄があるが、「ギャンブルこそが人生だ」と言われても、「ちょっと待て」と言いたくなるだろう。
辞書的な定義に従えば、ギャンブルとは「金銭や品物などの財物を賭けて偶然性の要素が含まれる勝負を行い、その勝負の結果によって賭けた財物のやりとりをおこなう行為」であり、経済学的には「金銭の移動をともなう非生産的なゲーム」であり、一般的な感覚に従えば「運に任せて一攫千金か、素寒貧か」といったようにも表現できるだろう。

  • ここで「ギャンブル」を私なりに定義すると、「利益を得ることに期待して、場合によっては損失が発生することもある状態に金銭や財物を運用すること」「その場合の利益、損失とは財産の直接的な変動を指す」ということになる。

この定義に従えば、株式投資はギャンブルである」。それどころか、一般的に言われる投資行為はすべてギャンブルだと言える。なぜ投資行為がギャンブルと区別して捕らえられているのかというと、「投資行動は生産的ではないが、実際に生産活動に従事する人びとの生産効率を高めるという理由に正当化された」(日本財団図書館(電子図書館) 私はこう考える【公営競技・ギャンブル】)ためである。
人々は自ら能動的に、利益に期待して、損失のリスクを受け入れ、株式投資をする。場合によっては、損失のリスクを正確に把握していない場合も多々見受けられるが、すべての人が「利益に期待して投資をする」ことは間違いないだろう。十二分以上の資産を持っていて、「株式投資なんて遊びのひとつだ」なんていう資産家がいたとしても、極端な例で上場廃止などを受けて自分の所有している株がすべて紙くずになって大喜びするようなマゾではあるまい。利益が出れば嬉しい、というだけでも利益に期待していることに変わりはない。

  • では、消費とギャンブルはどう違うのだろうか。

「ある人が家を買って、そこに住む」
これは単なる消費である。その人は「家を購入する」という行為から利益を得ようとはしていないからだ。
「ある人が家を買って、それを人に貸して家賃収入を得る」
この場合は、賃貸業務がうまくいって収益が得られるかどうかは不確定であるのでこれは投資行為というギャンブルである。なんらかの運用努力によって収益性を高めることはできるかもしらないが、その目論見がうまくいくとは限らない。その投資行為が失敗に終わる可能性ももちろんあるのだ。
より投機的な「土地転がし」などで利益を得ようとする行為などはまさにギャンブルとしか言いようがなくなる。
別な場合を考えてみよう。
もしあなたが多少の額の日本円を所持しているとしよう。そのまま現金を持っているだけでは、紛失や盗難に会う可能性がある。
そこで、銀行に預けることにした。その場合の目的は、「盗難や紛失に備えるため」「公共サービスの自動引き落としなどの利便性」といった理由がほとんどではないだろうか。少なくとも「銀行利子による利殖」を目的として銀行に金を預けている人など現代日本ではほとんどいないだろう(利子によて得られる利益よりも、物価の上昇の方が大きくて結果的に損失になるかもしれないくらいだ)。しかし当然ながら、銀行が破綻する可能性は0ではないので、銀行に資産を預けることによって損失が生じるリスクは存在する。だが、人々は「利益に期待して銀行に金を預けているわけではない」ので、これはギャンブルではないと言える。まして銀行サービスを利用する上では種々の手数料を支払っており、一般家庭レベルの資産程度では単なる銀行サービスの消費者でしかありえない。
要するにポイントとなるのは、「その行為によって直接的な利益の増大を期待するかどうか」という点にある。
もっとくだけて言えば「もうけたい」という気持ちさえあれば、それはギャンブルになるのである。


  • 株式投資はギャンブルではない」という主張の論拠はどのようなものか。

株式投資とギャンブルの違いを指摘している点についてまとめてみようと思う。
・「短期での投機はともかく、長期的な投資はさまざまな情報分析をすることで収益性を高めることができる」
→「あなたが持つ情報分析力や投資ノウハウが仮に優れたもので、確実な収益を現在までのところ上げているとしても、それが「株式投資はギャンブルでないと」と証明することにはならない。なぜなら、損失をするリスクは0ではないからである。あなたは損失を回避するように可能な限りの方策を実施し、現在までそれに成功しているかもしれないが、あなたの「ありえる事態の予想」をはるかに超える事態が明日起こらないとも限らない。損失のリスクを抱える時点で、それはギャンブル」
「また、優れたプレイヤーが存在し、確実な勝利を収めているとしても、それをもって「ギャンブルではない」と言うことはできない。麻雀などの、ある程度熟練性の必要なゲームにおいては、熟練者と初心者の間に回数を重ねれば重ねるほど確実な差がつく。しかし、「ゲームとしての麻雀をもっと認めてほしい」という意見はあっても「麻雀はギャンブルではない」と言う人はほとんどいません。「努力によって勝率を高めることができる」ことがギャンブルとしての要件を失わせることはない。それこそ、将棋やゴルフといったより実力の反映度の高いゲームにおいても、時に人は金銭を賭けることがある」
・「株式市場はゼロサムゲームではないので、ギャンブルではない」
→実際に株式市場の構造がどうであるかを論じる以前に、ゼロサムゲームでないということがギャンブルではないという理由にはならない。多くのギャンブルはゼロサムゲームであるが、ゼロサムゲームであるということがギャンブルであることの必要条件にはならない。それは、株式投資はどういった種類のギャンブルであるかという分析にはなっても、ギャンブルではないという証明にはならないのである。ある場合には利益が得られ、ある場合には損失を蒙ることもある。全体としての総和がマイナスだろうとプラスだろうと、それだけでギャンブルとしての用件は満たしているでのではないか。
・「株式市場を利用して確実に利益を得る方法も存在する」
→「古今東西、ギャンブルに確実に勝つ方法といえばイカサマに決まっている。株式市場にもそういった抜け道がある。インサイダーな情報を利用した取引である。これは、他のプレイヤーとの平等な立場で判断を行うという原則を破棄しているため、イカサマと表現するのがもっとも的確だろう。しかし、インサイダー取引が市場を破壊することは明白であるため、これは法律で禁じられている。つまり、まあ実情としてインサイダー取引だってある程度行われているのかもしれないが、建前としては株式市場にはそうした「イカサマ」は存在しない、存在してはならないことになっている 。それ以前に、イカサマが可能であるということがギャンブルではないことの証明にはならない」

なぜ日本人は子どもをつくらなくなったのか

昔は子どもはよく死ぬものだった。現代でも、発展途上国などではそうである。日本人の平均寿命が延びた最大の要因は、乳幼児の死亡率が劇的に下がったためだ。
運良く育って一人で遊べるようになっても、無茶をした事故などで子どもはよく死んだ。しかし、それは天命だった。時に人は死ぬ。それは当たり前のことだ。
現代でも交通事故などで人は死ぬ。しかし、それらの事故に親は責任を求めるようになった。加害者・管理者・責任者。だから子どもが死ぬたびに池に柵ができ、遊具は撤去され。石コロひとつですら危険物の存在は許されなくなった。
子どもを作って、それが育つのが当たり前となった。そして親にも子どもを育てる責任が生じるようになった。ちゃんと育てないといけないらしい。
しかし、子どもを育てることの見返りは少なくなった。昔の子どもは労働力でもあった。使い捨てられることもあった。労働力にならない子どもは捨てられた。あるいは食事を与えられなかった。本当に運良く生き延びて、やっと大人になったのである。しかし、今は子どもを育てても親にとって直接的な利益を生むことは少ない。あるいは、それを求めるべきではないと考える人が多くなった。
子どもを作ることのリスクとコストは増大したが、ベネフィットは低下した。人間は理性的な動物であるから、本能だけで子どもをどんどん作るわけではない。さらに避妊技術の進歩がある。性行動と繁殖行動の分離が進んでいるのである。少子化は必然だ。
「人間は子どもを作りたいと思うのが当然である」「子どもができたらそれを大事だと思うのが当然である」といった、親の無根拠な愛情を前提に置いた主張をするのはよした方がいい。それは一種の本能であるのかもしれないが、本能は万能ではない。人の行動から「情」の影響がまったくなくなることはないが、かといってすべての行動が「情」に基づくと考えることもできない。

「話のつまらない男に殺意を覚える」という言葉の背景にはどういう構造があるか

『話のつまらない男に殺意を覚える』というのは某書のタイトルだそうだが、内容については読んだことがないので、その評価はできないしするつもりもないし実際どうでもいい。 ここで私にとって問題なのは、なぜ「男」に限定する必要があるのか、ということである。つまらない話をする女はいない、ということなのだろうか。あるいは、つまらない話をする女もいるが、その場合は殺意を覚えることはない、ということなのだろうか。
前者の場合、性別によって会話の傾向は異なるものであり、男性の、それも特定のタイプの人間の話はつまらないと感じさせられる、ということが前提になっている。考えられるタイプの反論は「つまらない話をする女もいる(と私は感じている)」、であるが、これ自体は感覚の問題であって、水かけ論になることが容易に予想できるが、どちらが「正しい」と言えることではない。ただし、特定の男性の話をつまらないと「感じる」こと自体は自由であるが、それをもって「殺意を覚える(=死ぬべきである)」と表明することは問題である。「感じる」ことは自由であるが、それをもって他者に不当な扱いをすることは一般的に許されるべきことではない。
後者の場合、会話の技術は性別によらず個々人の資質に由来するが、その評価の基準は話者が男性であるか女性であるかで異なっており、女性の会話がつまらないのは許されるが、男性は許されないと考えている、ということが前提になっている。これは前者に比べてさらにポリティカルコレクトネスとは言いがたい。「男は面白い話をするべきである」という主張に合理的な根拠を見出すことは難しい。この場合、考えられる反論は「なぜ男だけが会話に面白さを求められなければならないのか。差別である」というものである。この点については反論に正当性があるのではないかと思われる。
実際には、上記の要素がクリアカットに分かれるのではなく、二つの要素が入り混じった上でこのような言葉が発せられているのではないかと推察する。なんにせよ、男性にとって不愉快な話と感じられる可能性は高い。「あなたは話のつまらない男ではない」と仮に言われたとしても、それが嘘である可能性はぬぐいきれない、と男性は感じるからだ。